2014年4月30日  
 

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中日社会問題の専門家、法学博士の張荊教授を訪ねる

 2014年04月30日17:31
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>>日本留学帰国者インタビューシリーズ

人物紹介:

張荊、男、1957年生まれ。1982年9月から1992年10月まで『青年研究』副編集長、中国青少年犯罪研究学会副事務長。1992年11月から1997年9月まで日本明治大学・東海大学訪問研究員。1997年10月から2002年3月まで一橋大学法学研究科に在籍、修士・博士学位を取得。2004年から北京工業大学人文社会科学学院で教授、法律学科長を務める。1988年1月、論文『青年期を論じる』で全国1987年度青年教育理論優秀論文一等賞。1990年10月、論文『急激な社会変化、社会統合と犯罪』で中国青少年犯罪研究10年優秀成果二等賞。1990年、研究報告『大興安嶺の特大森林火災に対する社会学研究』で中国社科院社会学所設立10周年優秀科学研究成果賞二等賞。2005年、書籍『在日外国人の犯罪』で日本第6回菊田犯罪学一等賞。2010年、『北京社会建設六十年』(副主編)で北京第11回哲学社会科学優秀成果一等賞。

取材メモ:

張教授は何度も、日本人が仕事に対していかに真面目かを語った。だがプロジェクトのために何度も現地に赴いて調査し、誤りのないよう繰り返し確認する張教授の学問への真面目さも敬服に値するものだ。張教授はここ数年、中国人に正しい日本の姿を紹介することを自らの役目と任じ、日本の公務員制度や地域更生制度、社会復帰施設、日本の大学体制の特徴や薪酬の決め方などを全面的かつ客観的に中国に紹介してきた。日本の経験を参考とすることを可能とする張教授の比較研究は、中国に改革の近道を歩ませるものとなる。


張荊教授。

インタビュー:

■「想定外」だった日本留学

――張教授が日本に留学したのはいつですか。当時、中日両国の交流はどのような状況にあったのでしょうか。

 日本に行ったのは1992年ですが、私は当時、日本のことをよく知りませんでした。父が元軍人だったせいもあり、数十年前の中日間の戦争が中国人に深刻な影響をもたらしたということから、日本に反感を持っていました。また外国語は日本語ではなく英語を学んでおり、日本にはそんなに興味がなかったのです。日本への認識は、中国を侵略した歴史を持つ国、という程度のものでした。日本留学のきっかけはまったくの偶然です。国家登山隊の隊員であった妻が、日本人に同行してチベット登山をした際、登山隊にいた長野の信州大学の先生とチベット滞在の2、3カ月で親交を結んだのです。その先生が妻に日本留学の話を持ちかけ、妻から相談を受けた私は、良い機会だと日本行きに同意しました。私はカナダのトロント大学の訪問学者のポストに興味を持っていましたが、紆余曲折を経て明治大学から招待を受け、同大学の訪問研究員となり、夫婦二人で一緒に日本で生活することになりました。

 日本の第一印象は、この国は私の想像とまるで違うというものでした。まず気付いたのは清潔さです。到着の最初の日は、妻の保証人の家に滞在しましたが、もう暗く、周囲の様子には気を止めませんでした。翌朝、窓から外を見ると、道が雨に洗われたように清潔で、空が青いのに感動しました。また人々が丁寧におじぎするのを見て、礼儀正しさにも感銘を受けました。私はそれでも、すぐにこの国を好きにはなりませんでした。日本社会に興味を覚え、日本から学ぼうと思い始めたのは半年ほど立ってからです。最初の半年は感情的な壁があり、日本語を一言も話すことができませんでした。日本の進んだ面や文化的な面を知ったことで、本格的に日本語を学ぶ気になったのです。勉強は録音を聞いたりもしましたが、区役所のクラスにも参加したました。区役所では当時、とても安価な日本語授業が受けられました。お茶を飲んでお喋りする程度の授業ですが、200円払うだけで毎日通うことができました。私は日本文化を受け入れ始め、反感を覚えることはなくなりました。
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上野公園で花見。

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