藍暁氏は、正大食品企業(上海)有限公司副総裁(北京支社COO)、東京都立大学大学院博士課程前期(計量経済分析・国際金融)終了の修士だ。かつて東京地方自治体の外国籍の特別招聘公務員をつとめ、日中間の政府協力や民間友好交流に数年間従事した。米国C社の東京支社に入社した後、農業・畜産食品業界での職業生涯を歩み始め、後に東京支社の社長代理をつとめた。1995年末に米国本部に異動、アジア地区業務総監をつとめる。その後、日本資本のグローバル企業N社の米国支社に移り、アジア地区経理を担当、北米や南米、日本、中国・香港・台湾、シンガポールなどの農業・畜産食品の国際業務に従事。2007年秋に正大集団に移り、23年の間離れていた祖国の北京に戻り、同集団の食品事業分野の国際業務に従事している。
上述の略歴を見ると、氏が豊富な経歴を持つベテランのビジネスマンであることがわかる。中国から日本へ留学し、現地で就職して何年も働き、その後また米国へ行き何年も仕事をする。異国で20年以上も働き、生活し、氏は普通とは違ったどのような経験を経てきたのだろう。日米両国の人間と接し、どのような感想を持つのだろう。
----いつ日本に留学されたのですか。
今から数えると25年前、1985年の1月です。
----どうして留学を選んだのですか。
私は大学で日本語を専攻しました。当時日本は、多くの中国人にとってまだ非常に遠く、影響力の大きな場所でした。また私が小学生だったころ、同級生の兄が東南アジアで外交官を勤めていたのですが、当時は外交官というのは本当に珍しく、時々彼が兄や国外のことを話すのを聞いて、とても神秘的で影響力があったのです。
私は文革以後に大学に入学しましたが、当時中国政府は既に対外開放を明確に提唱していたものの、国外がどんな様子かは誰も知りませんでした。当時の中国では、外国人は非常に珍しく、時々見かけると、外国人の話すこと、持っているもの、全てが珍しく感じられ、大勢が集まってきたため、当時は政府が市民に外国人ゲストにつきまとわないようにと呼びかけるような情況でした。改革・開放政策の実施で国外に留学に行くことが可能になったので、日本に行くことに決めたのです。
----当時の中日交流はどういった状態でしたか。
当時の中日交流は少なかったです。1972年に国交は回復したものの、長い間双方の交流は政府レベルに限られていました。私達が大学に通っていることになると徐々に、日本の民間人が訪れるようになり、観光に来る人もいました。当時、本当の日本人と日本語で交流して練習するチャンスがあると、みんな熱心に話したものです。つまり、民間交流は改革・開放以降初めて始まったということもできるでしょう。
----当時は交流がまだ少なかったのですね。
そうです。例えば、当時全国の全ての大学で日本語専攻で募集される新入生は1年で100人以下で、いくつかの外国語学校のみに限られ、非常に少なかったです。現在大学の日本語教師はいずれも修士や博士の卒業生ですが、当時は日本語専攻の教師も専門学部の卒業とは限らず、日本語が少々できる人間が教師をつとめていることもありました。
----先ほど1985年初めに日本に行ったとおっしゃいましたが、日本に行ったばかりのころはどんな感じでしたか。
日本経済の高度成長は1980年代が最も輝かしい段階にありました。東京についたのは1月15日の夜だったと覚えていますが、到着後バスで東京の新宿に行くと、見えるのは一面の高層ビルと明るいネオンの広告でした。ちょうどその日は日本の成人式で、若い男女がきれいに着飾った姿は華やかな雰囲気で、当時、それまで感じたことのなかった強烈なインパクトを感じました。現在の中国人が日本に行ってもおそらく違いを感じるとは思いますが、これほどのインパクトは感じないでしょう。当時の中国の経済水準と日本とは全く比べ物にはなりませんでした。行った当日の昼、北京の長安街で広く見渡してもっとも目を引いたランドマーク的建築物は、国際クラブの茶色のビルでした。しかし当時の東京の多くの場所は、現在の北京の国貿一体の賑やかさと変わらないでしょう。