略歴:
董凡氏(男性)は北京出身で、1989年に日本に留学。新宿国際日本語学院で日本語を2年間学習後、王子経理専門学校に入学。1年後に大学院を受験し、半年間学ぶ。その後、当時のJCP社に就職。現在は北京金海方舟文化発展有限公司の執行董事。
インタビュー内容:
記者が董凡氏と初めて会ったのは、中国砂漠義務植林ボランティアスピーチコンテストの会場だった。董凡氏は2009年に日本倫理研究所中国事務所主任の于振中氏、企業経営者の廖理純氏らと、内モンゴル自治区渾善達克で植林緑化拠点を設立し、ほぼ毎週末に各業界から応募者を募り、義務植林を実施した。2013年には張北地区で二カ所目となる緑化拠点を設立し、2014年には青海省で三カ所目の緑化拠点を設立した。一カ所目の拠点は現在まで約42万本、二カ所目は約40万本を植えており、いずれもモンゴリマツとハコヤナギ。その後、記者は董凡氏の事務所を訪問し、留学などの状況について独占インタビューを実施した。
■日本の驚異的なチームワーク
記者:日本に留学したのはいつですか?当時の中日両国間の交流は、どのような状態でしたか?
董氏:1989年3月26日に日本に留学しました。それまでは裁判所で勤務していたが、当時北京市で日本への自費留学を希望する人のうち、政治・法律部門で許可されたのは私が初めてでしょう。
私は当時23歳で、まだ若かった。日本での5年間の経験は、人生観と世界観を形成する上で大きな一助となりました。まず当時の中国は改革開放から間もなく、まだ立ち遅れていたが、日本は先進的で発達していました。当時の中国は、家電を買うにも券が必要な時代でした。そのため日本留学は、他者から羨まれることでした。当時の日本では、日本語学校に通う外国人は就学生と呼ばれ、大学に通わなければ留学生とは呼ばれませんでした。私は初め東京で、新宿国際日本語学院という、高田馬場付近の日本語学校に通いました。私は通学には地下鉄を使い、新宿駅から徒歩で通いました。日本語を2年間勉強すると、王子経理専門学校に入学し、そこで1年間勉強しました。その頃から、私は運転免許をとりはじめました。あの頃は、日本にいる中国人のうち、運転免許を取得しようとする人は少なかったのです。私はその後また大学院に合格し、半年ほど通ってから当時のJCP社に入社しました。この会社はNHKの取引先でした。
日本の印象について語ると、アルバイトにせよ通学にせよ、どこにいても文明的で礼儀正しい社会であると感じさせられました。帰国後は、周囲とまったく咬み合わないことがわかりました。例えば、誰かと話をする時の最も簡単な例は、習慣的に頷いてしまうことです。他人は、日本から帰国してからどうしてペコペコばかりしているんだと聞いてきました。しかし私は、他者が話をしている時に頷くのはひとつの尊重、そして反応だと思います。相手に、私が真剣に聞いていると感じさせるのです。もしキョロキョロしていたら、確かに聞いていたとしても、相手は聞いていないように感じます。そうすれば無礼になってしまいます。
長野県に行き、現地の漁村のお祭りを見たことがありますが、非常に衝撃的でした。実際には地方の小さな催しに過ぎなかったのですが、決められた時間になると、村民はお祭りの時の衣装を身にまとい、自覚的にイベント会場に向かいました。銅鑼を鳴らして隣人を促す必要などまったくなかったのです。これは生まれつき備わったチームワークであり、この精神は日本企業の中で最も良く示されています。
日本に留学する際に、現地の物質面の発展(家電製品や新幹線など)の程度を見るだけではなく、一般人の高い素養を見るべきです。ハード面で中国は急速に追いかけており、これは簡単なことだが、ソフト面で追いかけるのは簡単な問題ではありません。中国人はいっそうの努力が必要です。
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