高速鉄道は高い? 旅客輸送は需要も選択肢も多様化 (2)
こうした懸念や低所得層の人々への関心は尊いものだ。調和の取れた社会という目標を達成する際には、低所得層の人々の権利を中心の流れの外に置くようなことはしない。富める者は稲妻のように素早く移動し、貧しい者は苦労して道を歩くというのでは、公平さや正義に背くことは明らかだ。
だが注意しなくてはならないのは、低所得層の人々への関心が極端になってはいけないということだ。すべて低所得層向けにしては、社会の幸福につながらない。社会はさまざまな階層で構成されており、関連する対象が広い重要な措置や建設では、各階層の求める利益を総合的に考慮することが欠かせない。それぞれの要求の間に矛盾やもつれがあれば、最大限の努力をして最大公約数を見いだすべきであり、一方だけに肩入れしてはならない。
鉄道建設では、低所得層は相対的に速度が遅く、時間がかかっても値段の安さを求め、高所得層と中所得層は車内の快適さや時間の短縮を求め、そのためには出費を惜しまない。どちらが正しく、どちらが間違っているということではないし、どちらかだけに配慮すべきでもない。高速鉄道を建設して普通列車をなくすのがだめなことははっきりしている。ただ低所得層の人々に極端に関心を寄せる人々の理屈によると、いっそのこと高速鉄道の発展を放棄して、のんびり走る昔ながらの「緑皮車」を全面的に復活させるのが、対所得者にとっては最も割に合う選択だということになるが、これは荒唐無稽な考え方だ。