日本が「共通の価値観」を頼りに苦境を脱するのは困難
釣魚島(日本名・尖閣諸島)問題で苦しみ、対策のない安倍内閣は、「合従連衡」遊びを始め、いわゆる「共通の価値観」カードを切った。安倍首相とその閣僚たちが遙々欧州を訪れ、アジアに働きかけた際に用いたのは、いずれも「敵は本能寺にあり」式の相変わらずの手法だ。親密な関係を強調し、なれなれしく取り入ることで、道義面から中国を封じ込め、釣魚島問題で中国に譲歩させようと企んでいるのだ。
昔から日本の欠点は自らの「聡明さ」に頼ることにある。だが実際にはこれまで利益を得られたことはなく、いたずらにお笑いぐさとなっただけだ。日本メディアですら大層きまりが悪い様子で、この熱意ある「共通の価値観」カードは冷たくあしらわれたと考えている。故意に何を言っているのかわからないふりをする国もあれば、話題をそらして答をはぐらかす国もあった。領有権問題と「共通の価値観」を絡めることはできないと誰もがわかっているからだ。日本が無理に引っ張り込もうとするいわゆる「盟友」が関心を持っているのは実は資金源であり、多額のばらまき銭を約束通り全額受け取ることだ。日本と一緒になって中国を叱責するようなことはしない。
外交は駆引きであり、カードは欠かせない。だが日本が「共通の価値観」カードを切るのは、最も時宜に適わぬものだった。民主、自由、人権を語るには最低限自分が真の君子でなければならないが、日本は過去の歴史の清算をしておらず、今日の言動もよろしくなく、その資格がないからだ。
第1に、第2次大戦の性質について日本と似た見解を持つ国はいまだにない。日本の歴史学界の一部と政治屋たちは半世紀余り前の中国やアジアの国々に対する侵入がファシズム戦争だったことを全く認めようとしないがために、侵略は解放、虐殺は自衛、略奪は開発、占領は共栄だったという奇怪な考え方を編み出している。こうした明らかに馬鹿げた考え方は、明らかに負けていながら口ではそれを認めぬという虚栄の災いであり、認知の混乱と言ったほうがよい。第2次大戦の性質および戦後の国際秩序さえ受け入れられないのに、「共通の価値観」などどこから来るのか?