「本業」を選ぶにも、それを辞めるにも、理性的に考えてから決める人がほとんどだ。もし、従業員が「副業」を「実需」と見なしているなら、雇用者側も、従業員の管理制度や給与制度について、真剣に見直す必要があるだろう。
今の若者、特に給料だけでは足りないと感じている90後(1990年生まれ)の若者は、「実需」という言葉に対する理解も異なる。
筆者自身は、「給料の半分が食費に消え、もう半分は家賃」という生活を経験したことはない。貯金と呼べるような資産はほとんどないが、都市で何とか生きていくことができているし、時には好きな物を買う余裕もある。「副業」もしたことはあるが、「実需」だと感じたことはない。
副業が「実需」であるかは、個人の消費状況にかかっているだろう。ぜいたく品が「実需」と感じる人もいれば、出かける場合は必ず「タクシーに乗る」ことが「実需」と考えている人もいるだろう。一方、バスのカードの残高が2桁以上であること、清潔で温かい服を着ることが「実需」だと感じている人もいる。
今は商業社会で、「消費」は単なる行為ではなく、ライフスタイルの一部になっていることは認めなければならない。より良い生活を追求するということは、向上心のある証拠であるものの、消費主義という落とし穴には警戒しなければならない。
現在、インターネットが社会の隅々にまで浸透しており、人々の考え方や行動の仕方にまで影響を与えるようになっている。ある種の生活を、自分で選んでいるのか、それとも、選ばされているのか、または巻き込まれているのか、分からなくなることもある。経験を積み、物事を深く考える習慣を身につけて、何でも自分で判断できる能力を養わなければならない。そして、依然として輝きを放っている価値あるものが、必ずどの時代にもあることを覚えておかなければならない。それは、作業着を着ている人のうちにある価値かもしれず、電動立ち乗り二輪車に乗っている人のうちにある価値かもしれない。また、その価値は、分厚いスケジュール帳の中に隠されているかもしれず、毎日覗く微信(WeChat)のモーメンツに隠されているかもしれない。大きな理想を抱き、民族や人類のために何かをしたいと考える人もいれば、自分の家族を養うことを一番に考える人もいる。1日十数時間ライブ配信しているネット上の人気者であっても、常に真理を求めて研究に打ち込む科学者であっても、誰でも、誠実に働くということは、永遠に尊敬に値することだ。(編集KN)
「人民網日本語版」2019年9月19日