2015年12月8日  
 

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残留孤児・池田澄江 「最大の願いは家族を見つけることではない」

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第11期

人民網日本語版 2015年12月08日10:31

 

「中国帰国者・日中友好の会」は戦後の中国残留孤児によって組織された日本の団体。東京・上野近くにある同団体の事務所には、毎日のように歌や踊りを学ぶ白髪の残留孤児らの姿が見られ、いつも楽しそうな笑い声が事務所に響きわたっている。経済的に豊かな日本社会においては、何ら特別な光景ではないかもしれない。しかし、彼らが今こうして長閑な日々を過ごすに至るまでには、非常に困難な道のりがあった。数年前、彼らは街頭や裁判所前で声をあげ、自分たちの権益を守る活動をしていた。その中心人物となっていたのが同団体の理事長である池田澄江さんだ。

池田さんはこれまで、徐明、今村明子、池田澄江という3つの名前をもっていた。それはちょうど池田さんの人生を三段階に分けるように、その名前には対応する異なる情況があった。池田さんが歩んできた道は戦後の残留孤児の中で最も悲惨というわけではないが、その人生は劇的で、思いもよらない悲劇の連続だった。その悲劇に直面するたび、池田さんは歯を食いしばって耐え、自らがその難関を乗り越えるとともに、他の孤児の支援にも尽力してきた。今の最大の願いは「中日平和友好」、一番なし遂げたいことは「中日両国の架け橋」だ。

中国で育った「徐明時代」

徐明という名は使用した時間が最も長い名前で、過去71年の人生で37年間、日本に帰国した2年目まで用いていた。

自分の名前や生年月日を知ったのは52歳になってからだった。それまで中国の養父母ですら池田さんの生みの親が誰なのかも知らなかった。1945年、日本の敗戦後、日本人の大規模な帰国が始まり、池田さんの生母は生後10ヶ月の池田さんを黒竜江省牡丹江の李という姓の中国人家庭に託し、母親代わりに育ててくれるよう懇願した。その後、子どものいなかった徐家が池田さんを引き取り、徐明と名づけて池田さんを育てた。

7歳の頃までは、周囲の子どもたちの暮らしと比べればまだ幸せだった。養父母は商人で、暮らし向きも良く、家族で牡丹江市内の四合院に住んでいた。「可愛らしい服を買っては着せ、いつもお花のように着飾ってくれた」、「外出するときは必ず私を連れ、転ばないよう、迷子にならないようにと常に気にかけてくれた」と池田さんは養母の愛情を思い起こす。


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