日本で必死に生きた「今村明子」時代
1980年、池田さんは牡丹江を訪問した日本代表団の記者に依頼し、日本の新聞紙面を通じて親戚を探した。すると北海道の吉川という姓の老人の目にとまり、自分が中国に残した娘かもしれないという手紙が池田さんに届いた。双方の描写には類似点が多く、血液型も一致した。
1981年、生みの父親が見つかったと思い込んだ池田さんは6ヶ月の訪問ビザを申請、3人の子を連れ訪日した。当初吉川さん家族は池田さんにとても親切で、言葉こそ通じないが、辞書を片手に楽しく過ごした。その後吉川さんは現地の関係当局に出向き家族である証明を取ろうとしたが、父娘関係の証拠が足りないとしてDNA鑑定を勧められた。3ヶ月後の診断結果、なんと2人は親子ではないことが発覚した。
この結果に吉川さんの池田さんに対する態度は一変、ヒステリックになって池田さんが中国から持ち帰ったものすべてを捨て、追い出されるように家を出ることとなった。当時池田さん夫婦の収入は高くはなかったが、吉川さんにきちんとした贈り物を贈りたいと、出国前にミシンや自転車、腕時計などを売り払って多少価値あるものを用意して贈っていたが、それも無駄になってしまった。関税で両替した日本円も親子4人が中国に帰るだけの航空券は買えず、知人もいない。このとき自殺が頭をよぎった池田さんは、遺書まで何通も書き、中国で待つ夫と養父母に送ろうとしたとき、当時自殺を図ろうとした養母が絶望に満ちた私の姿を見て踏みとどまったのを思い出し、子どものために生きる決意をし、再び方法を考えた。
やるせない思いの中、池田さんは手続きの際に通訳をしてくれた在日華人を思い出し、具体的な住所も知らぬままタクシーでその通訳事務所へ向かった。タクシーのメーターが上がるたび、途中で諦め子どもを連れて降りようと考えた。ある場所まで辿りつくも、道端で途方に暮れていると、そう遠くない場所に建つビルに馴染みのある名前が見えた。ちょうど捜し求めていた通訳事務所だった。