人民網ではこのほど、「AI時代の外国語教育 その苦悩と模索」をテーマとする小野寺健氏による連載をスタート。小野寺健氏は特定非営利活動法人日中友好市民倶楽部の理事長を務めるほか、長年にわたり数多くの中国の大学で日本に関する教育指導を行い、「淮安市5.1労働栄誉賞」や「第二回野村AWARD」、「中国日語教育特別感謝賞」などを受賞しているほか、人民日報海外版では「中日友好民間大使」として紹介されている。
第六章 外国語教育の現実
フランスの哲学者デカルトが、「方法序説」の中で「我思う、故に我在り」と論じ、考えることが人間の本源であると述べ、パスカルも「パンセ」の中で、「人間は、自然界において、最も弱い一本の葦に過ぎない。しかし、それは考える葦である」と述べているにも拘らず、その本源たる「考える」仕事に従事する学者が、弟子や学生に下請けをさせ、更に共著や自己の論文として発表する愚行は、恥の上塗りであり、学徒として、最も恥ずべき行為だと言えよう。
教育の大衆化は時代の流れであり、寧ろ喜ぶべき面もあるが、本来教壇に立つ資質を欠く教師が教学を担い、大学教育に馴染まない学生が入学することで、教学の緊張感が薄れ、教育の希薄化が進行して、教師と学生の馴れ合いが横行し、ディズニーランド化が顕著に見られる。
また、組織とカリキュラムも硬直しており、社会の発展から取り残された化石の如き存在となっていることも否めない。
株価が実体経済の先行指標とされ、鉱山に於けるカナリアの役割りを果たすとすれば、本来大学は、社会の木鐸たる役目を担うものであるべきだが、失業率が遅行指数である如く、社会の趨勢を追いかける保守的な組織となり果てている。
そこで、社会の木鐸たる役目を担う大学の機能を回復させ、外国語教育の魅力を高め、その生き残りを如何に図るかと言うのが、本連載執筆の動機だが、筆者の浅学菲才は棚上げとしても、一部の先見的な幹部を除き、現場教師の危機感の希薄さは、驚くべきものがある。
「人民網日本語版」2019年3月6日