こういった背景の下、日本では個人主義が台頭してきた。その核心的な思考は、みんなで相互協力しても大きく発展できないのなら、それぞれの個人の実力に応じて待遇を決め、優れた人の中でずば抜けて優秀な人たちが周りを導き、共に勝利に向かって進んでいくというものだ。この考えを基調とする思想は、日本の隅々にまで浸透した。日本の熱血アニメもその例外ではない。日本は熱血漫画の力を借りて「日本は簡単には負けない、さらに強大になることができる」というメッセージを世界に向けて発信した。このように日本は、屈服せず、弱気になることもなく、他国に勝つために頑張るという国家イメージを懸命に努力して構築しようとした。
■攻めから守りの姿勢に転換した日本
歴史は常に驚くほど似通っており、しかも無数に繰り返される。21世紀に入ると、日本はいくつもの危機に相次いで襲われる。2003年にITバブルが崩壊し、2008年に米国のウォール街の金融危機が東アジアに波及、2011年には、東日本大震災や福島原子力発電所の放射能漏れ事件が日本に重大な損害を与えた。この一連の天災や人災は日本を再び恐慌に陥れた。この段階で熱血漫画を打ち出しても恐慌が渦巻く社会の中で埋もれてしまうのは間違いない。
「銀魂」(2004)や「進撃の巨人」(2009)、「東京喰種トーキョーグール」(2011)の中では、21世紀の日本の熱血漫画がかつての才能や強さを誇示する強気な姿勢を放棄し、小心なほどに注意深く自陣を守る姿勢に変わったことに気付いて驚かされた。これらのアニメには、日本人の文化の中に深く浸透している「物の哀れ」や「宿命論」といった悲観的で厭世的な人生観が極限まで発揮されている。このタイプの新型熱血漫画・アニメでますます激しさを増す攻めと守りの逆転は日本の国家イメージにも変化が起こりつつあることを暗示しているのではないだろうか?
現在「攻めと守りの逆転の戦い」を展開している新型熱血アニメを前にして、「これは相継いで打撃を受けた日本が弱音を吐き始めた象徴だ」という説を唱える人もいる。日本がかつてないほどの厳しい危機感に覆われ、そこから抜けられなくなっているという言論には同意するが、弱音を吐いたという説には懐疑的な考えを持っている。かつての伝統的な熱血漫画は、間違いなく「日本の強さ」を強調していた。しかし、これらの作品が21世紀の新型熱血アニメに取って代わられた後、「強さと弱さ」に関する矛盾した対立を具体的にどのように文字にするのかは、確かに非常に考えさせられるところがある。