恐らく河原さんのプロフィールを見たほとんどの人が好奇心と驚きの念を覚えるに違いない。17歳で音楽を始め、20歳でテレビドラマ「メイド刑事」の挿入歌で作曲家デビュー。専門学校在学中からB'zなどを擁する音楽プロダクション「ビーイング」と契約を結び、AKB48に提供した「風は吹いている」が1日104万枚という1日における史上最高売り上げの日本記録を樹立、23歳にして2011年の年間作曲家売り上げで3位を獲得。これまで下積みなど一切ない順風満帆の音楽人生を歩んできた。
それにしても、17歳で音楽を始めたばかりの若者がなぜこのようなキャリアを積むことができたのだろうか?
――17歳までは音楽には一切触れたことがありませんでした。今でもあまり譜面は読めませんし、「猫ふんじゃった」も弾けません。
一昔前ならば楽器が弾けて、音符が読めてといったことが、音楽をやっていく上で当たり前でしたが、僕らの世代が恵まれていたのは、パソコンで音楽を作れるというのがかなり一般化されてきた時代だったんですね。最初からコンピューターというツールが目の前にあり、そこから入ることができた。
もちろん本物を作るとしたら高価なパソコンを買わなければならないし、僕にはそれを買う余裕はなかったけれど、自宅にある普通のパソコンでも遊びの範囲なら十分音楽ソフトを使うことができたんです。そのソフトをテレビゲームにはまるような感覚で、のめりこんでやってました。
ごく普通の高校生だったという河原さんは、17歳の時に思い立ってギター教室でギターを習い始め、高校を卒業後音楽の専門学校に進学、そこで頭角を現していく。
――ギター教室ではギターだけではなく音楽理論を学んでいました。「せっかくなら、楽曲を作れたほうがいい」と、先生に勧められるまま楽曲作りを始めました。実際にやり始めたら、ギターよりも面白くなってしまい、プロになりたいと思って音楽の専門学校に行くことに決めました。
専門学校在学中は今よりもずっと生意気で、気が強くて、とにかく根拠のない自信がありました。今もそんなに変わらないかもしれないですけど(笑)。授業を受けるよりも、勝手に一人でスタジオで爆音を鳴らしていました。
当時から今でも変わらない考え方ですが、音楽の基礎はもちろん大切ですが、最終的には誰かに学ぶものではなくて、自分の経験がものをいう世界だと思っています。
授業以外では、沢山の人と話すことで、自分の考え方の視野を広げたり、ということを大切にしていたので、毎日、講師や友人達と熱く音楽について話をしていました。
中でもB'zやZARDのサウンドプロデューサーの明石昌夫氏と桑田佳祐さんや布袋寅泰さんのサウンドプロデューサーの藤井丈司氏に本当に良くして頂いたおかげで、人間的にも大きく成長させてもらったと思っています。
日本の音楽業界をリードし続けているお二方とは到底渡り合えるわけはないのですが、それでも教えてもらうだけの立場ではなく、一緒に仕事をしたいと言ってもらえる存在になろうと努力していました。