日本『留学生新聞』創刊者の趙海成さんを訪ねる (3)
■留学生から編集長になる
記者:学生生活を終えて留学生向け新聞の編集長になった経緯を教えてください。
趙海成:私は、日本大学芸術学研究科で2年ほど映像理論を学び、1988年に大学院の課程を修了しました。その時、アルバイト先だった翻訳会社から中国語の留学生新聞を作る話が来て、日本初の留学生向け新聞『留学生新聞』の編集長となりました。
新聞創刊のねらいは複雑なものではありません。日本に滞在する中国の留学生がだんだん多くなる中、留学生の日本での生活や学習には多くの情報が必要となります。留学生の生活を便利にするため、情報提供のメディアとしてこの新聞を作ったのです。台湾地区と香港地区を含む華人を対象として、進学や生活、奨学金、生活の知識などにかかわる各情報を提供しました。新聞はすぐに大きな反響を呼びました。在日華人留学生向けの最初の新聞だったので、すぐに多くの人が読んでくれるようになったのです。
当時留学生だった人たち、特に今50歳くらいになる人たちは皆、『留学生新聞』をよく覚えていると言います。「私たちにとって唯一の精神的な糧だった」と言ってもらうことも少なくありません。私は『留学生新聞』で10年仕事をしました。新聞は今も発行されています。
■十七年後の中国帰国
記者:10年働いた『留学生新聞』を離れたのはどうしてですか?
趙海成:3年間留学して、新聞を作り始めて10年が立っていました。私が1990年に『留学生新聞』を離れたのはまず、日本でも中国語新聞が増えてきたこと、広告市場もどんどん複雑化してきたことがあります。それに編集長職も長かったので、そろそろ後続に譲らなければという気持ちもありました。当時、ある友人(テレビドキュメンタリー『私たちの留学生活』プロデューサー張麗玲)がCCTVの番組を日本に持ち込む会社を興そうとしていたので、私もそれに参加し、株式会社大富の宣伝部長の職に就いたのです。
2年ほど後、日本のあるテレビ局が大型ドキュメンタリー『シルクロード』を作ることとなり、中国側との連絡の仕事を私に依頼してきました。撮影期間一年で、その間ずっと旅をし続けるということでした。私は旅好きで、シルクロードにも興味があったので、大富での仕事を辞め、中国に戻り、彼らと一緒にシルクロードを巡りました。その後、『シルクロード』は日本のテレビで放送され、注目を集め、ビデオもよく売れたということです。また最近は、私たちが十数年前に撮った素材でまた番組を作るという話も聞いています。
記者:その後、中国に帰って定住することになったのですか?
趙海成:それからは、私はプランナーとして独立して、テレビや映像の撮影、インタビューなどに携わりました。日本にいる中国人や中国にいる日本人を取材したり、交流活動を取材したりして、雑誌やウェブサイトに文章を書きました。私は今も同じ仕事をしています。
2002年、中国での定住を決めたのは、妻を連れて国に帰り治療をするためです。妻はがんにかかり、日本でも有効な治療法がなくなっていました。中国で3年の治療生活をし、妻は亡くなりました。私はその後も一人で中国にとどまり、5年後、新たな家庭を作ることになりました。今の家は北京にあり、二歳半の子どもがいます。