「その時、ふたたび君が現れた
つかの間のはかない幻のごとく けがれなきいと麗しき天女のごとく
歓喜にわが胸はうちふるえ ふたたびわが心は蘇った
あがめる神も、高まる感情も、気力も、涙も、愛も蘇った」
これは、ロシアの文豪、アレクサンドル・プーシキンが綴(つづ)った「いとしき人へ…(アンナ・ケルンへ)」と題した愛の詩だ。60年前、プーシキンの愛の詩は中国と日本の若い男女のやりとりの中に登場し、これ以降愛や忠節の誓いを表す上で使用された。2人の愛の物語は1950年代から始まり、2人が合葬され、ともに永遠の眠りにつく昨年までずっと続いた。武漢晩報が伝えた。
これは、日本人女性、溝脇千年さんと当時中国人軍人だった杜江群さんとの間の物語だ。昨年6月、溝脇さんの遺骨は日本から武漢に持ち込まれ、溝脇さんが一生愛した男性、杜江群さんと一緒に葬られた。溝脇さんの遺志はこうしてついに遂げられた。
■中国の療養所で出会った日本人看護師と中国人教師
1944年、当時15歳だった溝脇千年さんは中国の東北地域に家族と移り住み、中国の人々が経験した苦難の生活を目にしたことから、自ら中国共産党八路軍に志願して参加した。その後まもなくして、日本は投降したが、溝脇さんは日本に帰国せず中国に留まる事を選択した。1952年の夏、溝脇さんは他の日本人看護婦7人とともに、広西チワン族自治区南寧市軍区の303病院から羊楼洞部隊療養所に派遣された。ここで、溝脇さんは当時肺結核で療養していた杜江群さんと出会った。
当時、29歳の杜さんは学校の政治教師で、病状は重かったが、楽観的だった。当時、療養所では外国籍の看護師に世話をしてもらうことを拒絶し、粗暴な態度を取る患者は少なくなかった。ある日、溝脇さんの動揺した様子を見た杜さんは立ち上がり、負傷者に安心して治療を受けるようにと説き伏せた。この出会いによって、2人の若い男女の間に愛が生まれた。2人はこれ以降一緒に散歩したり、語り合ったりしながら、ゆっくりと愛を温めていった。