東京にある筆者の家の近くに小さな曹洞宗寺院・慶安寺がある。門にある桜は満開になると白い雲のようになり、花が散る時は雪が舞っているかのようで美しい。桜の季節以外には、門に貼られている書道作品がそこを通る人たちを魅了している。そこに書かれている内容は興味深く、俳句の時もあれば、「桜の花が舞い散っている時に、枝に残っている花がまた美しい」などの格言もある。最近書かれていたのは「心の美しい人になれるかは、自分の努力しだい」という言葉だ。筆者は寺の前で、「日本人の宗教心は今、どのように変化しているのだろう」と、ふと思った。(文:岳光。環球時報掲載)
日本の「今年の漢字」は毎年、京都にある有名な仏教寺院・清水寺で発表される。 「金」、「安」、「震」、「変」、「偽」、「愛」など、今年の漢字は毎年、袈裟を着用し、首に数珠をかけた貫主により巨大な和紙に揮毫される。その時の様子からは、仏教徒の気勢と、儒家の優雅さが感じられる。普通に考えると、宗教家は世俗的なことから離れ、心を清めることに専念しなければならないのに、日本のお寺はなぜ、このようなにぎやかなことをするのだろう?仏教が日本に伝わって既に1500年が経ち、現地の神道と互いに影響し合いながら、日本独特の宗教観が形成されている。文部科学省が2013年に公表したデータによると、日本の総人口は約1億3000万人であるにもかかわらず、「信者」の総数は約1億9000人となっており、国民一人当たり一つ以上の宗教を信仰していることになる。中国人にとってはよく理解できない現象であり、説明するとすれば、日本では宗教は「信仰心」ではなく、「好み」や「ニーズ」という言葉を使って説明しなければならないだろう。同省の統計では、日本各地には仏教の寺院が約7万6000ヶ所ある。日本ではコンビニが日常生活のニーズを満たしてくれているが、物質的なニーズ以外の精神的拠り所というニーズは、日本人の気質に合った大小さまざまな宗教施設が満たしてくれている。この点、日本のお寺はとても便利であると言っても過言ではない。
しかし、日本人の価値観が近年明らかに変化しているのを背景に、その超便利なお寺も、多くの人の精神的ニーズを満たすことができなくなっている。ペースの速い都市での生活や複雑な人間関係にさらされ、多くの人は仕事が終わってから友人と食事に行ったり、週末に郊外の公園を散歩したりし、さらには心療内科などに行ってカウンセリングを受けるホワイトカラーもいる。商業界がいろんな商品を打ち出して人々の精神的ニーズを満たそうとしてるため、宗教は逆風にさらされていると言える。日本では、無宗教の人が20年前と比べて約1割増え、約60%の人が、「幸せな生活を送るためには宗教が必要」とは考えていない。定年退職した元公務員である友人は、「仏教や神道、キリスト教をちゃんと信じている人は多くないが、形式だけの信者は多いと思う。日本は、『科学と民主』を掲げて現代社会に入り、心の中での宗教の価値は以前ほど大きくない。しかし、日本人は、『集団行動』が好きで、心の中では他の人と一緒であることを求めるため、歴史上の神話や伝説を信じているだけであることを年を取った人も理解している」と話していた。(編集KN)
「人民網日本語版」2017年6月14日
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