トリニダード・トバゴ 華人の200年の歴史を振り返る
トリニダード・トバゴと中国は海と陸によって遠く隔てられているが、深い縁が存在する。中国人は1806年に、この土地に足を踏み入れた。200年余りに渡り、現地の華僑・華人は勤労に励み、努力を続け、一人また一人と有名な華人が誕生した。新華網が伝えた。
◆何才 独立後で初の総督
Solomon Hochoy(何才)は一般庶民の家庭に生まれた。両親はいずれも華人で、2歳の時に両親と共に、ジャマイカからトリニダード・トバゴに移住した。何才は成人すると、現場の政府役人から勤め上げ、港湾・工業・人材などの部門で任職した。何才は1960年に、トリニダード・トバゴの総督に就任した。トリニダード・トバゴが1962年に独立した後も、何才は1972年まで総督に就任し続けた。
何才は英国植民地における初の華人総督であり、また英国の植民地であった西インド連邦で初の現地出身の総督となった。何才は任期内に、政府による公務員の現地化を支援し、英国のトリニダード・トバゴにおける影響力を弱めていった。
◆陳友仁 孫文の戦友
陳友仁はトリニダード・トバゴの華人の商人の家庭に生まれ、大学卒業後に現地の有名な弁護士から法律を学び、トリニダード・トバゴ初の華人弁護士になった。
1911年秋、辛亥革命の勝利の情報が英ロンドンに伝わった。現地で余暇を過ごしていた陳友仁はこれを耳にし、魅力的な海外産業を投げ打ち、中国に戻ることを決めた。陳友仁は帰国後に政府職員や新聞記者になったが、その後は段祺瑞が日本と結託した記事を執筆したことで投獄された。陳友仁は出獄後、広東省に行き孫文に従った。
陳友仁は英語と法律に秀でており、長期間に渡り孫文の助手を務めていた。1926年には国民政府外交部長に就任し、その外交の風格は「鉄腕」と称され、英国の租借地だった漢口および九江の返還に関する交渉を主管した。
陳友仁は1941年に、日本軍の脅迫を受け上海に転居し、長期間監禁された。日本軍は陳友仁に、汪精衛の偽政権に加わるよう何度も説得したが、そのたびに断られた。陳友仁は1944年に、上海で病死した。