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大坪光泉氏 |
2000を超すと言われる日本のいけばな流派の中で5大流派の一つの龍生派の顧問を務める大坪光泉さん。600年程の歴史と伝統を持つ日本のいけばな界にあって、大坪さんはその伝統と流派にこだわらない前衛的な作品を発表し続けてきた。日本愛知万博でいけばなの装飾を手掛けるなど世界を股にかけ活躍してきた大坪さんは、2000年に中国を訪れたことをきっかけに仕事の拠点を中国に移すことを決意。その後、中国に渡った大坪さんは文化庁の滞在型文化交流使として、これまで大学を中心に120回を超える講演を行ってきた。10年を一区切りとして中国に滞在する予定でいた大坪さん。しかし、その予定を2年早めてこの夏、日本に帰国することにした。そんな大坪さんに中国のいけばなの現状や帰国の理由などについて伺った。
■2000年頃の中国は戦後間もない新宿の街に似ていた
--大坪さんの作品を拝見させていただきましたが、いけばなの概念を超えた、非常に前衛的な作品を多く手がけていらっしゃいますね。これは、どういう考えから創作されたものなのでしょうか?
私の作品には日本のいけばな界や流派に対する反逆の気持ちが込められています。伝統的なものというのは、柔道にしても、相撲にしても、茶道にしても、伝統にこだわって排他的になったりとか、新しいものをこばんだりしますよね。しかし、伝統的なものこそ本質を大切にしながらも、新しいものを取り入れていかないといけないと思っています。
また、作品だけでなく、人生を生きる上で、松尾芭蕉の俳句作りの理念である「不易流行」に大きな影響を受けています。父親が俳句会の会員だったので、家に俳句に関する本がたくさんあり、高校時代にそれを読んでこういうものがあるんだなと感心した覚えがあります。これは、俳句が人を感心させる為にはいつまでも変わらない本質の上に、新しく変化する流行を取り入れていくべきだというもので、北京での仕事や生活でもこの言葉を実践してきました。
--日本の第一線で活躍されていた大坪さんが中国に仕事場の拠点を移そうと思われたきっかけはどういったものだったのでしょうか?
もともと、中国の山西省の太原に息子が留学していたのですが、ある時期、息子が風邪をこじらせてしまい、その様子をみるために、2000年に太原に行きました。それが初めて中国の地に足を踏み入れた瞬間でした。
太原の街は、今もあまり変わっていないと思いますが、当時、いわゆるおもちゃ箱をひっくりかえしたような街だったんです。非常に生き生きとしていました。なんて素晴らしい街なんだと思いました。それから、北京に戻って、北京で2、3日過ごしました。北京の街は立派で大きかったんですが、郊外に行く機会があって行ってみると太原と同様に素晴らしい面白さで。それで、もう北京に住もう、自分の仕事場を北京に移そうと、その旅行で決めてしまいました。それまでは、自分の仕事場をニューヨークに移そうと思っていたのですが、急遽北京に変更しました。
--中国の街のエネルギーに魅了されたんですね。
そうですね。当時の北京というのは、戦後まもない新宿の感じがしました。その頃の新宿は、いつ何がおこるかわからない、非常に活気に満ちた街でした。それと同じ状況が太原の町と北京郊外にもあったのです。
新宿を初めとして、当時私が住んでいた東京というのは、私のような少し変わった芸術家を求めていました。そして私は、時代に乗ったわけです。それで、北京を見て、同じことが起こるに違いないと思いました。私の変わった能力というのはあの頃の東京で開花したわけですが、北京ではもっと開花するチャンスがあると目論んだのです。
でも、実際の北京は日本に比べてもっと伝統的な街でした。東京は、戦争によってほとんど焼け野原になったと表現されるように、伝統も、何もかも、すべてが焼けてなくなりました。だからこそ、新しい発展を遂げるために革命的なものを求めたわけですが、北京はそれとは異なり、もっと伝統とか古いものを重視する街でした。
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