矛盾した日本人像 礼儀正しく親切で、冷淡で不寛容? (4)
しかし、日本語の漢字と中国語の読みは異なるので、詩歌の意味に斬新さを加えようとするのと同時に、唐の時代に作られた押韻で詩歌を作ろうとすると、非常に骨が折れる作業となった。しかも、中国語学者でもない高校の詩歌クラブの部員たちにとって、一つ一つ文字を探して詩歌を作ることは、どれほど難しいことかと実感させられた。私が学校に通っていた頃は文革時代だったので、学校は封建主義や資本主義、修正主義の文章を読ませなかっただけでなく、勉強自体が不要とされ、詩歌を作ることに関しても、毛沢東主席が詩歌をたしなむことを知っているのを除けば、中国に多くの詩人がいたことさえ知らなかった。ある人に、中国にはあんなにも美しい詩や曲があるのに、あなたはどうしてそれについてあまり知らないのか?と聞かれたことがある。文革を持ち出して説明することもできず、ただ自分は知らないのだと言うしかなかった。このことによって、日本人が何事に対しても真面目で、非常に厳格に規則を守るということを深く実感した。また、日本人は普通の趣味に対しても同様に一切おろそかにせず真面目に取り組む。
日本の書店に入ると、古い漢語の文献や書籍が中国の書店よりも多く置かれているのを目にする。しかし、中国の現代文学や歴史書は基本的にほとんど置かれておらず、中国脅威論や中国崩壊論といったジャンルの本になるといきなり多くなる。一冊づつ読んで行くと、近代中国の規則の制定は、日本に比べてずっと速度が遅いと感じられる。また規則が制定されても、中国人は自分たちでさえ真面目に守るとは限らない。だから中国の工業製品の多くは日本のものよりずっと劣っており、日本では中国崩壊論を説いた本が売れるのだ。
中国人は常に二つの日本を見ることができる。一つは古典中国文化を敬う極めて礼儀正しい日本であり、もう一つは中国の現況に対していくらか見下している日本だ。これらは日本においては決して矛盾しないが、中国人にとっては全く調和していないように見える。
礼儀正しいが、傲慢で冷たく、規則を厳格に守るが、変化や例外には対応できない。この二つの部分が現在の日本には共存している。我々はたまたまある場面でそのうちの一つを目にし、また違う場面でもう一つの完全に異なる日本を見るのだ。上下関係や親密さの違い、規則に対する見方などが、これらの矛盾を内包する背景を解く重要な要素であるはずだ。(筆者・陳言(コラムニスト)/編集MZ)
「人民網日本語版」2013年9月27日