2016年9月29日  
 

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眠っていた戦争の記憶を呼び起こす日本の学生記者 (2)

人民網日本語版 2016年09月29日13:17

「間宮」の元乗務員・松金一家さんを取材する愛媛県出身の学生記者・高井里佳子さん

8月19日には「戦争を考える/中 多くの菓子職人、海に消え 沈没の給糧艦『間宮』元乗組員ら証言」を掲載。太平洋戦争中も長期間に渡って戦地に日本の良質な菓子を届け、後に米潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没した「間宮」に搭乗していた乗松金一さん(89)は、兵士ではないにもかかわらず、軍国主義の犠牲となった菓子職人の経験を語っている。また、学生記者の原子奈津実さんが、今年5月に亡くなった曽祖母・小泉ツソさん(101)が生前大事に持っていた手提げの中から、28歳の時に戦死した夫、つまり原子さんの曽祖父の最期が書かれた手紙が出てきたことも語っている。祖母、原子レイ子さん(79)は、「母さんは生きている間全く父さんの話をしなかった。やっぱりつらい思い出があったんだろうね」と語る。

広島県呉市の大和歴史博物館に展示されている「人間魚雷」の搭乗員の遺品。

8月26日には「戦争を考える/下 特攻隊慰問、今も脳裏に 宝塚歌劇団で1943年初舞台」を掲載。戦中から戦後にかけて宝塚歌劇団で花組副組長として活躍した竹林ヨシミさん(89)が太平洋戦争中の苦労を語っている。竹林さんは、実際に特攻隊の人たちを見送っており「特攻隊員はみんな姿勢よく劇を見て、終わると敬礼し、飛行機に乗っていった。行ったら二度と帰ってこられない」と当時の状況を説明した。また、若者が軍国主義の教育で「正義のため」には命も惜しまないと考え、帰らぬ人になっていったことに心を痛めた。慶応大学で長年、法律学の教授を務めた金子芳雄さん(91)も、戦争中は海軍兵学校に在学し、特攻兵器の人間魚雷「回天」の搭乗員になることを志していた。しかし「終戦を迎えてすぐに、民主主義や平和主義が大切であると痛感した。戦争の責任を果たすためにも行政の面から新しい国を造りたいと思い、行政法を究め、教壇に立ってきた」と語っている。


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