1894年の中日甲午海戦(黄海海戦)発生から120年後の今年、中国は1月31日に再び甲午の年を迎えた。120年前の甲午の年、中日近代海軍は正面から交戦し、中国が負けた。二十歳余りの知識人、梁啓超は感慨無量で、後に『戊戌政変記』付録「改革起原」で「我が国が四千年の深き夢から呼び醒まされたのは、実に甲午の一戦から始まったのである」と記した。実は甲午戦争(日清戦争)は当時世界の列強が中国を分割・併呑した一連の戦争の1つに過ぎなかった。新華網が伝えた。
この年、西洋式医学教育を受けた30歳足らずの孫文は北洋大臣李鴻章に上書し、改革の主張を直接伝えた。偉大な志が報われることはなかったが、上海で革命の盟友、宋耀如に出会った。年末にはハワイで中国国民党の前身となる興中会を創設した。この年、毛沢東は満1歳だった。
19世紀末の当時、グローバル化のうねりが初めて起き、欧米はすでに第1次産業革命を完了し、第2次産業革命を開始していた。だが中国では蒸気機関や電灯といった近代文明の象徴が、ようやく上海などでゆっくりと普及し始めたばかりだった。
同年、米国は工業総生産額で世界第1位に躍り出た。当時米国はまだ建国100年余りだった。ほぼ時を同じくして、ライト兄弟は子どもの頃の夢である飛行機の完成に近づいていた。中国の隣国の日本は変化の到来に対して明らかに一定の準備ができており、すでに明治維新を完成し、最初の鉄道を持っていたうえ、軍と武器の改革を行い、新式の教育、行政、司法システムを確立していた。松下幸之助はこの年に生れた。
中国にとって、この甲午の年は梅蘭芳が生れた年だが、かつて世界最大の経済体だった「中央帝国」は1840年のアヘン戦争以来、衰退の深淵に一段とはまっていた。