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西園寺一晃先生インタビュー「歴史を忘れてはならない」 (2)

■23年間の歴史を銘記

 「現在の日中両国の若者にとっては、新中国成立から1972年の日中国交樹立までの23年間の歴史を知ることが大切だ」と西園寺先生は強調。「周総理は私に『1950年代初めから中国は日本との国交樹立を望んでいた。だが障害が2つあった。1つは日本がこの提案を受け入れるかどうか、もう1つは中国民衆の感情の問題だ。当時中国民衆の日本に対する憎しみは山のようで、われわれ中国は発展し、強大化したら、必ず日本人に報復しなければならない、などの呼び声が激しかった』と語った。こうした状況を前に、周総理は『軍国主義の侵略者は断じて許さないが、日本の民衆も被害者だ。われわれは友好的に付き合う必要がある。これは双方、さらにはアジアにとって極めて重要だ』と表明した」と振り返った。

 「新中国成立後、周総理は日本に対して自ら2回呼びかけを行った。その1つは政治協商会議で提起された。駐ジュネーブ中国総領事も日本側に書簡を提出したが、日本側はいずれも取り合わなかった。後に中国は国内に残された日本の女性、子ども、および戦争捕虜を全て安全に日本へ帰国させた。この行動に日本の民衆は感動し、国を挙げて政府を批判した。こうして、日本国内で中国との国交樹立を訴える声が日増しに高まった」。西園寺先生はこれを、中国政府の対日政策の勝利と評価した。

 こうした中、中日双方は国交樹立の準備をするための懸橋を必要としていた。「最終的に私の父がこの重任を担うことになった。私たち一家が中国に来たのはこのためだ」と西園寺先生は語った。12年8カ月に及ぶ中国滞在中、西園寺公一先生は政治、経済、貿易、文化など各分野の中日交流の疎通を図る重責を担った。北京台基廠大街1号の西園寺公一先生の事務所は中日交流の重要な窓口となった。

 まさに日本の民間が力強く推し進めた結果、反中の佐藤栄作内閣が倒れた後、1972年に田中首相が中日国交樹立という最終的選択をしたのだ。

 西園寺先生は「日中両国の今日の友好は確かに苦労して得られたものだ。日本社会党の浅沼稲次郎委員長は中国を数回訪問し、周総理と会った。日本でも早期国交樹立のために奔走し、日中友好を積極的に訴えた結果、最終的に右翼に殺された。奔走し訴えた流血の犠牲。日中友好のために上の代の人々が努力した歴史を、日中両国の若者はくれぐれも忘れてはならない」と厳かに語った。

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