日本留学後、内蒙古の砂漠緑化に尽力する李亜芬博士 (2)
李亜芬さん
■日本の社会・文化を一筋に体験、追究
記者:日本や日本人に対する見方は、日本に来る前と来た後で変わりましたか?
李亜芬:日本に来る前は、日本のことをあまり知りませんでした。その多くは、映画から学びました。日常生活の面では、実際にほとんど経験したことがなかったので、日本に来て、一から理解し、体験する形になりました。多くの日本人が私を助けてくれました。特に、比較的高齢の方は、本当に優しかった。ある画廊で偶然知り合った老婦人がいるのですが、日本の文化や映画・テレビについて私に多くのことを教えてくれ、私が1日も早く日本の生活に馴染めるよう、いろいろ助けてくれました。週末には、日本料理店に私を連れていき、私に着物を着せ、日本の葬式や結婚式を体験させてくれて、本当にお世話になりました。
■日本人の穏やかな心とボランティアの熱意に感動
記者:日本での留学生活は何年間でしたか?留学中、最も印象に残ったことは?
李亜芬:私は、1999年末まで、日本で11年間留学生活を続けました。印象に残っていることは多々あります。例えば私の指導教員ですが、米国で最も有名な投資銀行であるゴールドマン・サックスが、彼に対し年俸5千万円のチーフエコノミストのポストをオファーしましたが、彼はそれを断りました。その後、ゴールドマン・サックスは、提示した報酬が少なすぎたのではと思い直し、1億円、さらには2億円と引き上げました。彼は、ゴールドマン・サックスに対し、「報酬が少ないから断ったのではなく、研究活動が好きだからだ。私には、研究の方が性に合っているし、自分自身の存在価値をより体現できると思っている。それに、これほどの報酬をもらっても、そのお金を使う時間がない」と話しました。彼は最終的に、日本アジア開発銀行に入り、日本政策委員会の委員を務めました。お金のために動くのではなく、教育や研究に対する熱意に満ちた彼の精神性は、私の心にとても深い印象を残しました。
もう一つ、私にとって印象深かったことは、1996年に、日本論理研究所が神戸の某大学で開催した講演会です。その講演会で、日本で最も有名な緑化専門家である遠山正瑛氏が長い講演を行いました。彼は、中国で植樹が必要な理由や、中国の植樹事業の情況について話し、私は非常に大きなショックと感動を覚えました。遠山氏は、84歳の時から、庫布斉(クブチ)砂漠恩格貝(エンゲベー)地区を訪れ、97歳で逝去するまで、植樹活動を続けました。また、氏に感化され、自腹を切って同地区を訪れ、植樹活動に従事した日本人は数多くいます。彼らの努力が実を結び、砂漠はオアシスへと変身を遂げました。この2つの出来事が、私の心に最も深く刻まれています。
日本の著名な砂漠緑化専門家の遠山正瑛氏は、1979年に退職した後、中国での砂漠緑化計画をスタートさせた。氏の呼びかけに応じ、内蒙古・エンゲベー地区で緑化活動を行った日本人は1万人あまりに達した。氏は、中国砂漠地区の植樹造林活動を20年間以上続けた。2004年2月27日、病気により死去、享年99歳。