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新潟出身の華僑・恵京仔氏「国籍はずっと変えない」

人民網日本語版 2015年09月14日16:54

 

中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利70周年を記念して、今月3日に北京で行われた軍事パレードを、天安門から見学する新潟生まれの華僑・恵京仔氏の姿があった。恵氏とは、一体どんな人物なのだろう?央視国際が報じた。

原籍地が中国山東省の恵氏は1932年に新潟県で生まれ、今は有名な透析治療の専門家として活躍している。医者になった理由について、恵氏は「子供のころの経験と無関係ではない」とする。

第2次世界大戦中、恵氏は日本の小学校に通っていたものの、「中国人」であるため、登校する時には、兵士や警察が付きまとい、学校でも、同級生から罵声を浴びたり、教師から殴る蹴るの暴行を受けたりするなど、理不尽な境遇に立たされた。また、テストで1位の成績を収めても、わざと最下位にされたりもしたという。そのような目に会っても、恵氏はぐっと歯を食いしばり、涙を流すこともなかった。しかし、南京が陥落した日、全校生徒と教師が歌を歌いながら街を行進し、興奮が高まる中、恵氏は軟禁され、無理やり土下座をさせられたという。そして、怒りと屈辱で、恵氏は涙を抑えることができなくなり、大泣きした。その時、健康な体と精神力がなければ、国の繁栄はないと思い、医師になることを志した。

その後成長してからも、恵氏はその目標を達成しようと努力し、新潟県の女子大学の入試を受けようとしたものの、拒否された。そのため、父親が必死に受け入れ先を探しまわり、さまざまな障害を乗り越えて、恵氏はついに昭和大学医学部に入学した。そして、卒業してから数年後、新潟大学で医学博士の学位を取得し、新潟山東病院の院長になった。

恵氏は43歳だった1975年、透析の専門家として、初めて中国の地を踏み、北京友誼病院に、人工透析装置6台を贈呈。中国初の人工透析医療センターを立ち上げ、無料で医師や技術スタッフの育成をサポートした。

現在、国際医学界でも名を馳せる恵氏は「今でも、日本での生活にはいろいろと不便なことがある。でも、どんなに不便であっても、国籍を変えるつもりはない。なぜなら祖国を深く愛しているから」と語る。

「人民網日本語版」2015年9月15日

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