日本人戦犯・堀口正雄の1954年8月の供述書によると、堀口は1901年に日本の東京都で生まれた。1937年から中国の東北部で中国侵略戦争に参加し、日本新京憲兵隊惇化憲兵分隊長や錦州憲兵隊中佐隊長などの職を務めた。
堀口が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1937年8月には、捕虜となった抗日聯軍愛国分子1人を「惇化県城西側砲台山高地ニ連レテ行キ、部下ノ憲兵軍曹ヲシテ日本刀デ首ヲ切ラセルノ惨行ヲシマシタ」
1938年末から1939年8月までには、逮捕した愛国者8人を拷問の上取り調べ、そのうち「三名ハ哈爾濱第七三一部隊ニ特委処分トシテ送致」した。
1939年6月には、部下の憲兵隊が拷問して殺害した中国人1人を、「夜ヲ利用シ山ノ中ヘ持ッテ行カセ埋メマシタ」
1939年8月には、部下が逮捕中に中国人1人を銃撃によって死亡させ、「屍体ハ暗夜ヲ利用シテ牡丹江河ニ投ゲ棄テ」た。
1942年8月から1943年8月までには、抗日人員計約80人を逮捕し、そのうち「憲兵司令官ノ認可指令ヲ得テ哈爾濱第七三一部隊ニ送ル」としたものは「約20名」にのぼった。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年8月12日