日本人戦犯・藤原広之進の1954年7月から8月の供述書によると、藤原は1897年に日本の愛媛県で生まれた。1935年に中国東北部に赴き、中国侵略戦争に参加した。穆稜・湯原・新京などで日本憲兵分隊長などの職を務めた。1945年8月31日に捕虜となった。
藤原が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1936年2月には、半截河などの地で抗日救国人員の「荘俊哲以下十名」を検挙し、憲兵に命令して3月15日に9人を「厳重処分(殺害)にせしめた」。
1938年3月には、「(中国共産党)北満臨時省委、吉東省委系統」「合計二〇四名」を検挙し、このうち「六十八名を(中略)哈爾濱検察庁に送致し」、「死刑七名」の宣告を行った。
1938年4月中旬には、湯原県での抗日聯軍の鎮圧行動において、「四名の平和人民を捕へて部下に命じてその三名を殺ろさせ、私は横川の銃剣でもって他の一人を刺殺したのであります」
1944年3月中旬には、逮捕した「抗日地下工作員稚某といふ平和愛国人民を哈爾濱石井部隊に送致しました」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年8月12日