日本人戦犯16人目・笠実の供述書公開 多くの平民を殺害(二)
日本人戦犯・笠実の1954年11月の供述書によると、笠は1906年に日本の福岡県で生まれ、李実という中国名を持つ。1939年に中国に赴き、偽山西省臨汾県公署財務輔佐官や壷関県政府顧問などを務めた。
笠が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1939年11月には、河南省中牟県某村で、「中央軍兵士二名を捕虜とし」たが、その2人は「途中歩行できなくなったので畑中で刺殺された」。
1943年11月25日から1945年8月15日までは、「私が壷関県政府顧問として在任中、食糧及軽重工業原材料を収奪しましたので該県下の平和な居民百十名を餓死させました」。「一城と五十八箇村より略奪した粟、高粱、小麦、蜀玉米等の食糧は合計一千八十七万斤の多量であります。羊毛は約八千斤、羊皮約五百枚、約三十枚であります」
1943年12月には、部隊を率いて壷関県土河村を襲撃し、「部落の南端の哨舎内で熟睡していた民兵一名を逮捕しましたので私は彼を松田中尉に其場で引渡し翌日午後二時頃原田准尉に斬殺させました」
1944年6月から10月には、「壷関県禾登村の討伐を行い(中略)戦闘中該村指導員一名と民兵十名を殺害しました」
1945年2月には、「県政府教育主任陳某、新民小学校校長張士達其他公務員六名」を逮捕し、県長に「上記の者の殺害を命じました」
1945年2月には、壷関県県長に土河村への進攻を命じ、「該村民兵十八名を殺害しました」。同月、劉寨村への進攻を命じ、「該村民兵十四名を一軒の家屋と共に焼殺しました」
1945年3月には、部下に命じて「壷関県三王頭村を討伐」し、「日軍は軽機関銃を以て掃射し十九名の平和な居民を射殺しました」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月21日