日本人戦犯13人目・永富博之の供述書公開 直接殺害した中国人の総計六十一名(二)
日本人戦犯13人目・永富博之の供述書公開 直接殺害した中国人の総計六十一名(三)
日本人戦犯13人目・永富博之の供述書公開 直接殺害した中国人の総計六十一名(四)
日本人戦犯13人目・永富博之の供述書公開 直接殺害した中国人の総計六十一名(五)
日本人戦犯・永富博之の1955年2月の供述書によると、永富は1916年に日本の熊本県に生まれ、1938年に中国江蘇省呉江県で華中派遣軍宣撫班班員に任じられた。1945年8月の日本軍投降後は国民党閻錫山の部隊に入り、1949年に山西で捕虜として収容され、1950年12月9日に逮捕された。
永富が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1938年1月、国士館専門学校の学生の時、南京下関に向かう途中で「何万数えきれない程の死体が累累として横はっている」のを見た。南京下関では、揚子江の河中に飛び込んだ捕虜を「射撃して殺しました」
1938年4月,将校に模範を示すため、呉江県で捕虜1人を「日本刀で首を斬りました」。また蘇州で「某中国女性を紹介され汚姦しました。その後一週間を経て、再び蘇州に来た時同女性を呉江に連行し一週間姦汚をしました」
1938年11月には、安慶で「中国女性(三十歳位)を一人呼ばしめ機関内にて姦汚しました」。さらに翌日には中国人家屋で1人の中国人女性を紹介させ、「一回姦汚致しました」。同年12月には、「安慶城内の某中国人家屋にてXXX(年齢十六歳)を紹介せしめ、その夜る強姦致しました」
1941年5月には、「初年兵五十名に対白兵戦の教育を行うため」、「銃剣を以て一人を一回十米の離れた所から走って来て刺突しました」
1942年8月には、聞喜県横水鎮東郝荘での調査中、住人5人に対し、「横水鎮小北門外空地に於て日本刀で首を斬」った。
1942年10月には、聞喜県雲泉村と牛荘村の一帯を捜査した時、逮捕した中国人民「全部を銃剣刺殺し、又小銃で射殺せしめました」
1942年11月には、聞喜県の掃蕩の際、3人の晋南戦軍戦士を逮捕し、横水鎮情報所で、「情報所で中国人鍛冶屋に作らせた日本刀が斬れるか何うか試すために、横水鎮南門外の畑地の井戸端に於て首を斬らせました」
1942年12月には、聞喜県下峪口村で、「八名の臀部を目茶目茶に刺し殺害しました」。聞喜県東山底村で20人余りの住民を逮捕して、「日本刀を以て、又藁切刀にて惨殺を行い」、「南門の所二つの中国住民の頭を曝首にしました」
1943年2月には、聞喜県北白石村を掃蕩し、「十五名を部落の北側の凹地に連行せしめて、小銃にて全部射殺せしめました」。同日、蓋寨村で、「私が工作隊員に命令しまして」、「同村住民を九名小銃にて工作隊に射殺せしめた」ほか、「道案内として連行した住民一名は同地にて焼殺しました」
1943年10月から11月には、太岳山脈で、中国住民6人を、「高い山の台上から下に全部私が落して殺害してしまいました」。さらに「某村に於て洞窟家屋内に二十名の中国婦人子供を押し込み焼き殺した」
1944年7月、霍県の保安隊指導官を務めていた時には慰安婦を開いたが、「私の目的はこれにより保安隊兵士を女性にしばりつけ逃亡をなくせしめようと云う考えたのが主なる目的であり又自分もこれから公然と獣欲を満足せしめる事が出来ると云う考えから設けました」
1944年12月には、霍県李家山一帯の掃蕩の際、村民を逮捕・拷問したが何も言わなかったため、「私が兵士に命令して全部殺害せしめました」。西許村南では11人を小銃で射殺した。
1945年4月には、保安隊を指揮して捕虜9人を調査し、「目かくしをし、更に縛り上げた上射殺」した。
「私が日本より中国に侵略して来て以来、日軍の非戦に到る迄に犯した罪悪を小計して見ますと、私が自から直接殺害した中国人の総計六十一名」、命令をして殺害した総数は166人、上級の命令を受けて殺害した総数は41人にのぼる。
「婦女に対する強姦罪悪七名(中人妻に対し五名、娘に対し二名)。慰安所を設置し日軍及び保安隊員の獣欲に供せしめた罪悪三件、人員十二名の婦女。私が姦汚した中国婦女十八名(慰安所五名、食堂女招待四名、私娼八名、女中一名)」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月16日