「籌海図編」巻一の「沿海山沙図」(一部)(1561年) 明•万暦7年(1579年)、册封使の蕭崇業の著書「使琉球録」の中の「琉球過海図」、明•崇禎2年(1629年)茅瑞徵執筆の「皇明象胥録」、清•乾隆32年(1767年)作成の「坤輿全図」、清•同治2年(1863年)刊行の「大清一統輿図」などにおいても、釣魚島が中国の版図に組み入れられている。
「大清一統輿図」(一部)(1863年)二、日本および世界各国の地図は釣魚島が中国に属することの裏付けになる 日本の古い地図において釣魚島が日本の領土に組み入れられたことは一度もない。これは釣魚島およびその付属島嶼は歴史において、決して日本に属したことがないということを十分に証明している。1879年に日本が琉球を併呑し、沖縄県に改名した後に出版された地図でも、例えば、1883年に再出版された星唯清編纂の「大日本全図」、1885年に久米長順が編纂•出版した「沖縄県管内全図」などの地図のいずれにおいても釣魚島についての表記はない。これは琉球の属地に釣魚島、黄尾嶼と赤尾嶼が含まれたことがないことを証明できる。
1883年再出版された「大日本全図」の中の「琉球全島の図」 19世紀に、イギリス、フランス及びアメリカなどの国で出版された地図も釣魚島が中国に属することを認めている。1809年フランスの地理学者のピエール・ラビらが描いた「東中国海沿岸各国図」には、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼が台湾島と同じ色に塗られ、釣魚島が台湾の付属島嶼であることを明示している。1811年にイギリスで出版された「最新中国地図」、1859年にアメリカで出版された「コットンの中国」においても釣魚島が中国の版図に組み入れられている。1877年にイギリス海軍によって作成された「香港から遼東湾に至る中国東海沿海海図」では、中国東海の海洋地理が全面的に明示され、釣魚島が台湾の付属島嶼として表記され、地理的境界を示す波線で日本の先島諸島の石垣島と完全に分断されている。日本の「先島諸島」には釣魚島がそもそも含まれていないことが分かる。当該地図はその後の国際交流において幅広く活用された。これは中国の釣魚島に対する領土主権を国際社会があまねく認めている証である。
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