熊本県出身の武藤秋一氏は1935年、旧日本軍の第6師団に入隊した。37年7月7日に、全面的な中国侵略戦争の直接の導火線となった盧溝橋事件を日本が起こし、同月27日に、武藤氏が所属していた部隊が中国戦線への派兵通知を受けた。その3日後、武藤氏らは北九州から朝鮮半島を経由し、中国に入った。武藤氏の「従軍日誌」は、この時期から始まり1938年7月4日まで続く。37年9月、武藤氏は天津で初めて人を殺し、動揺から日誌を1週間停止したが、それ以外は毎日、日誌を綴った。記録ができなかった1週間に関して、武藤氏は息子の田中信幸さんに、「動揺し、食事ものどを通らないほどショックであった」と告げている。人民日報が報じた。
今年初め、田中さんは「人民日報」に、父親が戦争に参加した事に対する遺憾の思いや、もう2度と戦争を起こしてはいけないという思いを寄稿すると共に、「従軍日誌」の存在を中国の人々に伝えた。このほど、人民日報の駐日記者が熊本県に住む田中さんを訪ね、忘れられかけている歴史を聞いた。
「1937年9月2日、便衣隊(民間人に扮した中国兵士)を切りに行く。沼田少尉執刀のもとに切る。わが分隊みな一剣づつ突く」。この時、武藤氏は初めての人殺しの体験で、その後1週間ほど動揺し、食事ものどを通らないほどショックだった。日誌の記述も一週間途絶えた。ところが、その後1937年9月9日、「明日、ついに最前線に出発する日を迎える……首を長くして待っていたあこがれの最前線。天津に滞在中、便衣隊2人を殺した」と、普通のことのように日誌を再び綴り始めた。
「1938年2月21日、今日は楽しい外出日だ。石川と二人で先ず「朝鮮征伐」に行く。四回目だった。慶尚南道から来たトミコ。次は「支那征伐」に行く。初めてだった。そして最後に、かつての恋人八重ちゃんそっくりの懐かしい竹の七号室のチエコのところに行った。多少のいざこざは起こしたが、結局とりあえず先に帰ってきた」。
武藤さんから「従軍日誌」を渡され、その内容に田中さんはショック受けた。日誌を開くと、さまざまな残酷な行為が平然とはっきり記録されていた。人を殺した時のことなどを、武藤さんから聞いていたものの、日誌を見て詳細を知り、身の毛のよだつ思いがしたという。
田中さんの部屋には、武藤さんから渡された手紙と葉書き300通以上が便箋、封筒と共に保管されていた。手紙は2つのファイルケースで保管され、70年以上たった今も、その内容や切手、消印、軍事郵便マークなどがはっきり分かるほど、保管状態が良かった。田中さんは、父親の従軍時代の写真や、1940年に受けた勲章も見せてくれた。
田中さんは取材に対して、「学生時代に、明治維新や日ロ戦争の歴史しか学ばなかった。第2次世界大戦についての言及は非常に少なかった。『カイロ宣言』や『ポツダム宣言』、東京裁判などの内容は一切教科書に書かれていなかった」と語る。
この点、田中さんは、「当時、日本は残酷な侵略戦争を起こし、周辺国に大きな傷を与えただけでなく、日本の庶民の生活にも大きな影響を及ぼした。現在の学校は、その時の歴史を教えなければならない。しかし実際はというと、日本政府は終始、侵略の歴史に対する正しい認識を明確には示しておらず、侵略の歴史や関連の教訓を学校教育に盛り込むこともしていない。そのため、多くの日本人、特に若者は、日本がかつて起こした侵略戦争の過ちを全く知らない」と指摘する。
田中さんはまた、「当時、戦争を経験した人は、後の世代に戦争の事を語らないままに、この世を去ってしまっている。口伝えの内容には説得力がない。だから、父が私に残してくれた日誌や手紙は非常に貴重。特に、現在非常に重要な意義を持っている」とし、それらをまとめて本にして出版する計画を明かした。そして、武藤氏の子孫を含む日本の国民に、武藤氏の世代の人々がどのような心境で、どのような戦争に参加したのかを伝えたいという。「終戦70周年に間に合わせたい。タイトルは『父の戦争(仮)』。この本に、父の戦争に対する認識、反省、謝罪などを込めたい。日本人だけでなく、中国、韓国などの人々にもこの本を読んでほしい。そして、一層多くの人に、これらの資料を通じて、父親が経験したことや、日本が起こした侵略戦争がどれほど残酷だったかを知り、今ある平和がどれほど大切かを感じてほしい」と田中さん。(編集KN)
「人民網日本語版」2014年4月25日